アカペラグループRAG FAIRのリードボーカルとして知られる土屋礼央さん。
歌手、作曲家、ラジオパーソナリティ、落語家など、多方面で活躍する彼の学歴や音楽への道のりに迫ります。
芸術家の家庭に育ち、幼少期から音楽に親しんできた土屋さんの学生時代や、大学進学を選ばなかった理由について詳しく見ていきましょう。
土屋礼央の学歴と音楽への道のり

土屋礼央さんは1976年9月1日、東京都国分寺市に生まれました。
芸術一家に育った土屋さんは、幼い頃から音楽に触れる機会が多かったようです。
土屋さんの父親は日本画家の土屋禮一さん、母親は絵本作家の土屋侑美さんです。
さらに、親戚には詩吟を嗜むタレントの新山千春さんがいるという、まさに芸術一家の環境で育ちました。
このような環境が、土屋さんの音楽への興味や才能を育んだと考えられます。
小学生の頃から合唱団に所属し、中学1年生の頃には既にプロのミュージシャンを目指すことを決意していたそうです。
土屋礼央の出身校と高校時代の思い出

土屋礼央さんの学歴を詳しく見ていきましょう。
小学校時代
土屋さんは国分寺市立第六小学校に通っていました。
小学生時代には、「あすなろ合唱団」という、ハンガリー音楽の合唱団の先生が指導する団体に所属していたそうです。
ここでの経験が、後の音楽活動に大きな影響を与えたと考えられます。
土屋さん自身、ラジオ番組で小学校時代の思い出を語っています。
「五日市街道」沿いにある学校から、「小金井公園」までの遠足の思い出が印象的だったようです。全校生徒で「玉川上水」沿いを2時間ほど歩いた経験や、クラスの不良グループのリーダーに好きな子のことを聞かれて困った経験など、楽しくも甘酸っぱい思い出を持っているようです。
中学校時代
中学校は国分寺市立第五中学校に進学しました。この頃には既に音楽への情熱が芽生えており、プロのミュージシャンを目指す決意を固めていたそうです。
高校時代
高校は東京都立国分寺高等学校に進学しました。
この高校は偏差値67の進学校として知られています。
土屋さんは理系クラスに所属し、卓球部に入部しました。
高校時代は卓球部に所属され理系のクラスに進まれていますが、2年生の時には大学への進学はしないと決めていたそうで、夜中に曲を作りそのまま学校へ行くという生活をされたいたようです。
引用元:Arty
高校時代の土屋さんについて、いくつかのエピソードが知られています。
応援団長として活躍
高校3年生の時、土屋さんは応援団長を務めました。
自ら立候補したそうで、この経験が後の芸能活動にも活かされているのかもしれません。
応援歌を作曲したり、振り付けを考えたりと、創造性を発揮していたようです。
卓球部の「左のエース」
卓球部に所属していた土屋さんは、顧問から「左のエース」と呼ばれていたそうです。
しかし、実際にはレギュラーに選ばれたことはなかったとのこと。
この経験が、後の芸能活動での謙虚さにつながっているのかもしれません。
初めての「モテ期」
応援団長として活躍したことで、土屋さんは高校3年生の時に初めての「モテ期」を経験したそうです。
特に1年生の女子から人気があったようで、告白されるという経験もしたとのこと。
大学進学を選ばなかった理由と音楽活動の始まり

高校卒業後、土屋礼央さんは大学に進学せず、音楽活動に専念することを選びました。
この決断には、いくつかの理由があったようです。
音楽への強い情熱
中学1年生の頃からプロのミュージシャンを目指していた土屋さんにとって、音楽活動は人生の目標でした。大学進学よりも、直接音楽の道に進むことを選んだのは、この強い情熱があったからでしょう。
早稲田大学のバンドサークルとの出会い
土屋さんは、ある大学のバンドサークルに入れば、受験せずとも活動に参加できるという情報を得ました。
これが早稲田大学の軽音楽サークル「Modern Music Troop」でした。
この機会を活かすため、大学受験を辞めてフリーターになることを決意したのです。
音楽の知識を身につける別の方法
大学に進学する代わりに、土屋さんは週に一度、渋谷にあるカルチャースクールに通って音楽を学んでいました。
この方法で、大学に行かずとも音楽の知識を身につけることができると考えたのでしょう。
作曲活動の始まり
土屋さんの作曲活動は、高校時代から始まっていました。
特に、JR国立駅から自宅までの25分間の自転車通学中に、頭の中で鳴っている音楽を鼻歌にして曲を作っていたそうです。
「国立駅で降りて家に帰るまでの25分間、田んぼ道を自転車で走りながら鼻歌で曲を作っていました。
僕の作曲活動の原点ですね」と土屋さんは語っています。
この習慣が、後の作曲活動の基礎となりました。
世に発表されている曲の中には、この時期に生まれたものもあるそうです。
例えば、「夜散歩」という曲は、この通学路で作られたものだとのこと。
RAG FAIRへの加入とデビュー
早稲田大学のバンドサークルでの活動を経て、土屋さんは埼玉大学のアカペラサークルを母体とする「RAG FAIR」に加入しました。
2000年に加入し、翌2001年にメジャーデビューを果たしています。
RAG FAIRとして2001年にメジャーデビュー。2011年よりソロプロジェクトTTREをスタート。RAG FAIR、ズボンドズボン、TTREの多くの楽曲で作詞作曲を手掛ける。2012年にプロデュースしたiPhoneアプリ「ダァセリエス」は56万ダウンロードを突破。
引用先:東京新聞
この経歴は、大学進学を選ばなかった土屋さんの決断が、音楽キャリアの面では正しかったことを示しています。大学に進学していれば、このタイミングでのデビューは難しかったかもしれません。
まとめ
土屋礼央さんの学歴と音楽への道のりを見てきました。
国分寺市で育ち、小学校から高校まで地元の学校に通った土屋さんは、幼少期から音楽に親しみ、中学生の頃にはプロのミュージシャンを目指すことを決意していました。
高校卒業後は大学進学を選ばず、直接音楽活動に専念することを選択。
この決断は、RAG FAIRでのデビューという形で実を結びました。
土屋さんの経歴は、必ずしも一般的な進路選択ではありませんが、自身の情熱に従って道を切り開いていった好例と言えるでしょう。
現在、歌手、作曲家、ラジオパーソナリティ、落語家など多方面で活躍する土屋さんの姿は、この決断が彼にとって正しかったことを証明しています。
国分寺や国立での経験が、土屋さんの音楽性や人間性の形成に大きな影響を与えたことは明らかです。
地元への愛着を持ちながら、幅広い分野で活躍する土屋さんの今後の活動にも、引き続き注目していきたいですね。
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